生(性・エロス)と死の狭間「快感原則の彼岸」
人生は儚くも短い。ならば好きなように生きたもの勝ち。
自分の思い、考えを他人に見せるという事はすなわち恥もプライドもかなぐり捨て、自由に生きるということなのだ。
「くだらなく過ごしても一生、苦しんで過ごしても一生だ。 苦しんで生き生きと暮らすべきだ。」
(志賀直哉)
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」
(林芙美子)
~~~~~~~~~~~~~~~~
心理学者フロイトは『快原理(快感原則)の彼岸』(1920 年)で「生の欲動」と「死の欲動」という対を導入した。
フロイトの理論においては、死の欲動はそれ自体、経験的ないし実体的に捉えられることはなく、生の欲動との混合状態においてしか見いだされえない。
中略
そこでドゥルーズは、「生の欲動‐ 死の欲動」という共犯関係にある対そのものに対して、さらなる「彼岸」を、真に「超越論的な」ものとして対峙させる。それは、快原理との共犯や経験的なものの残滓を残してしまう「欲動」という言葉を排して、「死の本能[l’instinct de mort]」と呼ばれる。(p、77)
ドゥルーズにおける「倒錯」の問題―1960 年代におけるその展開と帰結―
年報人間科学 第33 号:75-88(2012)
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/metadb/up/LIBAHSK/ahs33_75.pdf>
『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸Justine ou les Malheursde la vertu』
の登場人物ロランのセリフ。
(……)私を待っているのは絞首刑の縄la corde だ(……)私は確信しているが(……)
この死は残酷どころか限りなく甘美なdouce ものだ(……)その感覚を私自身の体で知りたい。
首を締められる者は、それにより、勃起神経が射精へと導かれることが大いにありうることでないかどうか、自分の経験で知りたいのだ。こういう死が遊びに過ぎないと確信すれば、もっと勇敢に絞首刑に立ち向かうことができるだろう(……)。
以下がジュスティーヌによるセリフ
(……)ロランが信じたことは全く本当でした。彼の顔に描かれたのは快楽の徴だけでした。そ
して、ほぼ同時に、精液が丸天井に向かって何度も勢い良く飛びました。(……)私は彼の身を
解きに駆けつけました。彼は気絶していましたが、私の十分な世話で、息を吹き返しました
『アルマンス』のサディズム
(石井芙桑雄教授追悼記念論集)
著者:下川茂(文学部 /国際文化学域教授)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/620/620PDF/simokawa.pdf>
~~~~~~~~~~~~~~~~
エロス(性欲動)対 死の欲動
性欲の中にはエロス的な要素(相手をいたわり、情愛のこもった関係を望むという部分。母性)とサディズム的な要素(支配欲・加虐性)が不可分に混ざりあっている。
性欲とは、元来「エロスと死の欲動が混合」したものなのだ。
死の欲動とは、もしそれが純粋な形で現れた時にはきわめて危険なものである。よってその危険性を減らすために、欲動の混合がおこり、エロスによってその危険性が中和される。
逆に混合した欲動から、エロス的な要素が抜きとられると(欲動の解離)、非常に危険な欲動(死)になる。
私がSMが好きなのは「一瞬の煌めき・感動」があるからだ。
もし--長時間に及ぶプレイ--監禁プレイをしたとしたら、ほんの一瞬の感動の為に過酷な仕打ちを耐えるのー
さる轡をされ床に転がされたまま、主が帰ってくるのをひたすら待つ。
永遠に続くかと思うほどの暗黒と沈黙。
感覚と言う感覚は失われ、当初感じていた性器への快楽と、体に食い込む縄の痛みはとうに消え失せている。
精神が苦痛を凌駕してしまえば痛みや時間なんて関係ない。
たった一瞬
”救世”主が帰ってきた瞬間
それだけが救いの瞬間なのだ。
私たちは一生と言う、かくも辛い過酷な”プレイ”の中に居ながら一瞬の”解放”求め生きている。
それが首つりをして意識を失う瞬間の精子をぶちまける瞬間であったとしても、長い長い退屈な人生を全うする瞬間であっても。
人生すべてが長い長いプレイ。
ただその瞬間、あの”絶頂・解放”を迎える為だけに、長い長いプレイをするのだ。
たった一瞬。たった一瞬。
ほんの僅かな煌めきと、快楽の為に私たちは
「快感原則の彼岸」を目指し。
ぼろぼろのグチャグチャになりながらこの汚くて狭い世界で生き抜くのだ。
徹底的に追い込まれ、その瞬間に生じる狂気は人を虜にする。
生(性・エロス)と死の狭間でぐらぐらと煮えたぎって噴出したものこそが、人を魅了する恐ろしき中毒物となる。
右京
自分の思い、考えを他人に見せるという事はすなわち恥もプライドもかなぐり捨て、自由に生きるということなのだ。
「くだらなく過ごしても一生、苦しんで過ごしても一生だ。 苦しんで生き生きと暮らすべきだ。」
(志賀直哉)
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」
(林芙美子)
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心理学者フロイトは『快原理(快感原則)の彼岸』(1920 年)で「生の欲動」と「死の欲動」という対を導入した。
フロイトの理論においては、死の欲動はそれ自体、経験的ないし実体的に捉えられることはなく、生の欲動との混合状態においてしか見いだされえない。
中略
そこでドゥルーズは、「生の欲動‐ 死の欲動」という共犯関係にある対そのものに対して、さらなる「彼岸」を、真に「超越論的な」ものとして対峙させる。それは、快原理との共犯や経験的なものの残滓を残してしまう「欲動」という言葉を排して、「死の本能[l’instinct de mort]」と呼ばれる。(p、77)
ドゥルーズにおける「倒錯」の問題―1960 年代におけるその展開と帰結―
年報人間科学 第33 号:75-88(2012)
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/metadb/up/LIBAHSK/ahs33_75.pdf>
『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸Justine ou les Malheursde la vertu』
の登場人物ロランのセリフ。
(……)私を待っているのは絞首刑の縄la corde だ(……)私は確信しているが(……)
この死は残酷どころか限りなく甘美なdouce ものだ(……)その感覚を私自身の体で知りたい。
首を締められる者は、それにより、勃起神経が射精へと導かれることが大いにありうることでないかどうか、自分の経験で知りたいのだ。こういう死が遊びに過ぎないと確信すれば、もっと勇敢に絞首刑に立ち向かうことができるだろう(……)。
以下がジュスティーヌによるセリフ
(……)ロランが信じたことは全く本当でした。彼の顔に描かれたのは快楽の徴だけでした。そ
して、ほぼ同時に、精液が丸天井に向かって何度も勢い良く飛びました。(……)私は彼の身を
解きに駆けつけました。彼は気絶していましたが、私の十分な世話で、息を吹き返しました
『アルマンス』のサディズム
(石井芙桑雄教授追悼記念論集)
著者:下川茂(文学部 /国際文化学域教授)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/620/620PDF/simokawa.pdf>
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エロス(性欲動)対 死の欲動
性欲の中にはエロス的な要素(相手をいたわり、情愛のこもった関係を望むという部分。母性)とサディズム的な要素(支配欲・加虐性)が不可分に混ざりあっている。
性欲とは、元来「エロスと死の欲動が混合」したものなのだ。
死の欲動とは、もしそれが純粋な形で現れた時にはきわめて危険なものである。よってその危険性を減らすために、欲動の混合がおこり、エロスによってその危険性が中和される。
逆に混合した欲動から、エロス的な要素が抜きとられると(欲動の解離)、非常に危険な欲動(死)になる。
私がSMが好きなのは「一瞬の煌めき・感動」があるからだ。
もし--長時間に及ぶプレイ--監禁プレイをしたとしたら、ほんの一瞬の感動の為に過酷な仕打ちを耐えるのー
さる轡をされ床に転がされたまま、主が帰ってくるのをひたすら待つ。
永遠に続くかと思うほどの暗黒と沈黙。
感覚と言う感覚は失われ、当初感じていた性器への快楽と、体に食い込む縄の痛みはとうに消え失せている。
精神が苦痛を凌駕してしまえば痛みや時間なんて関係ない。
たった一瞬
”救世”主が帰ってきた瞬間
それだけが救いの瞬間なのだ。
私たちは一生と言う、かくも辛い過酷な”プレイ”の中に居ながら一瞬の”解放”求め生きている。
それが首つりをして意識を失う瞬間の精子をぶちまける瞬間であったとしても、長い長い退屈な人生を全うする瞬間であっても。
人生すべてが長い長いプレイ。
ただその瞬間、あの”絶頂・解放”を迎える為だけに、長い長いプレイをするのだ。
たった一瞬。たった一瞬。
ほんの僅かな煌めきと、快楽の為に私たちは
「快感原則の彼岸」を目指し。
ぼろぼろのグチャグチャになりながらこの汚くて狭い世界で生き抜くのだ。
徹底的に追い込まれ、その瞬間に生じる狂気は人を虜にする。
生(性・エロス)と死の狭間でぐらぐらと煮えたぎって噴出したものこそが、人を魅了する恐ろしき中毒物となる。
右京