理想のドミナを「作り出す」ということ~毛皮を着たヴィーナス~
パソコンのフォルダを漁っていたら、前に写真を撮ったは良いけどブログに載せてなかった一本鞭と吊りの講習会の写真があったので貼り付けときます。
下が前に、渚さんと雪さんと私の三人で吊りの講習を受けたときの写真です。
上手くなるためにはもっと練習しなければいけない。
次の写真は一本鞭の講習の時の写真です。
一本鞭はリエさんの指導のもと、打たせて頂きました。
一本鞭を振るうのは本当に気持ちよい。私は精神的にも肉体的にも恐怖と苦痛を与えてから快楽を与える「アメと鞭」に今はまっているので、鞭には大変興味があります。
(快楽+恐怖・苦痛+快楽 の順番でも良いけど)
今オーダーメイドで一本鞭を作って貰うところなので出来上がったらブログで報告しますね。
打たなきゃ意味が無い。でもそれは人に打たなきゃ意味が無い。
ただ打つだけならばクッションでも良いわけだ。
人に打ってその反応を見ながらどこまでして良いのかを判断していかなければ成長できない。
上手な人の鞭は打たれていくうちに気持ちよくなっていくらしい。
しかし、どんなに鞭を振るうのが上手くなりたいと思っていても、鞭を打てる相手が居なければ練習が出来ない。
私たちS女にとってM男性とは本当に必要不可欠な存在だ。
新しい技術を学び、応用していくことによりその技術が体に染み込んでくる。
真っ白のキャンパスに新しい色が塗りこまれていく。
その色を塗っていくのは誰でしょう?
それはSMプレイにはつきものの「痕を付ける」という概念にも同じことが言える。
鞭やケインで打たれ「痕」が体につく、これはSMプレイではよくあること。
「記念に鞭痕をつけて下さい」「ピアスや○○で女王様としたプレイを体に刻んでください」
なんて話はよく聞く。
体についた「痕」を家に帰ってからゆっくり見るなんてM男性にとってはご褒美以外の何物でもないだろう。
しかし「痕」を付けるのは決してS側だけの特権ではない。
技術向上を目指した女王様の練習台となり、女王様のテクニックとして体に吸収・定着すれば、何年後も一緒になることが出来る。
実際には会わなくなっていたとしても、女王様のテクニック・経験として一緒になることが出来るのだ。
女王様の体には決して見える「痕」は付かないけれど、確実にプレイしたM男性の「痕」は付く。
一本鞭などの練習台になるなんて一般人からしたら可哀想なイメージしか抱かないだろうが、それは逆に苦な事ではなくM男性による唾付け行為に近いのかもしれない。
私も何年かして女王様としてある程度実力が付いたときに思い出すのかもしれない。
この鞭の叩き方は●●を叩いた時に気づいたやり方だ。
このアナル責めのコツは◎◎だ。この縛りは○○○を縛ったときだ、と。
私は他店の経験が有り、シオラが始めてではないので今までのM男性の色が少しは付いてしまっているかもしれないけど、まだまだ色を付ける余地はあると思う。
ベテラン女王様になるとある程度自分のスタイルが確立されているが、新人時代に学んだことや経験したことは色濃く残っている場合が多い。
逆を言えば初期の段階でM男性が自らの体を練習台として捧げる事により、自分好みの女王様を作り上げることも可能なのだ。
完成されてしまった女王様に入り込む余地はないけれど、まだ発展途上のS女には入り込む余地がある。
そういう意味では練習台になるのも意味あることかもしれない
一人の人間、女王様を作り上げていく。しかも自分好みのプレイをする女王様。
それは完成された女王様では味わえない大人の男性の楽しみ方かも。
バブルの頃のように景気の良い時代なら一人の女を囲い、理想の女性・女王様を「作り出す」ことも可能だったのかもしれない。
一人の人間を「作り出す」なんていつの時代の男性も変わらず抱くロマンかもしれないね。
けれども、今の時代に一人の女性を囲うなんてよっぽどの事が無い限り無理である。
ならどうすれば良いのだろうか?
個人で「作り出す」のが無理ならば、一人ひとりの労力を分散させれば良いわけだ。
そこで「倶楽部の女王様」に目が行く。
一人ひとりのM男性が与える影響力は少なくなるけど、その分労力も少なくてすむ。その代わり女王様を独占することは出来ないが。
女王様を「作り出す」と聞いて思い出すのが『毛皮を着たヴィーナス』を書いた小説家レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホだ。
このマゾッホはマゾ(M)という言葉の語源となった人でもあり彼自身、身体的・精神的な苦痛や屈辱を被ることによって性的快楽を得る性倒錯者だった。
マゾッホの性愛小説である『毛皮を着たヴィーナス』は、彼自身の実体験に基づいてる。
内容は、主人公が美しい女性ワンダと出会い、自分が苦痛に快楽を見出す人間なのだと告白しワンダに鞭で苦痛を与えて欲しいと、また鞭で打つときには必ず毛皮を羽織ってくれと懇願する話だ。はじめはそれを拒絶していたワンダだが、彼への愛ゆえにそれを受け入れる。
『私の貞淑な妻になって欲しい。それがかなわないのなら残忍で冷酷な女主人になって下さい』
とワンダとの間に、"誓約書" を交わし奴隷と女主人という関係のまま、奇妙な結婚生活を送くる日々が描かれている。
作者であるマゾッホ自身も、実際に貧しい家の出である女性と出会い、彼の小説の主人公ワンダの名を名乗らせ、小説の筋書き通りに倒錯的な行為を強要するようになる。
彼の希望を満たすため、女性は迷いを持ちながら毎夜のようにマゾッホの身体に鞭を打つ。 そしてマゾッホの要求はエスカレートし、マゾッホは自分の前で他の男と姦通するように懇願し、その濡れ場を狂わんばかりの激しい嫉妬心を抱きながら覗き見るようになる。 その苦痛に耐える事がマゾッホにとっては "快楽" に繋がるのだ。
しかし、その歪んだ愛は小説同様に、ワンダがマゾッホ以外の男を愛し、”奴隷(マゾッホ)”に酷い仕打ちをし、”奴隷(マゾッホ)”の下から去るという形で物語りは終わる。
結局彼は最後は一人寂しく取り残されてしまうのだ。
この結末では、”奴隷(マゾッホ)”は不幸で可哀想な男性のように見えるが私はそうは思わない。
女主人のワンダはある意味、本当の意味での『女主人・女王様』になったのではないだろうか?
何でもM男性の言うことをハイハイと聞いてしまうのでは、八歩美人ドミナの出来上がり。
どっちが奴隷か分かったものではない。
八方美人ドミナと言う名の”奴隷”では、M男性としても面白くないのではないだろうか?
エゴサドになるのは良くないが、エゴマゾの言いなりになるのでは意味が無い。
「女は男の奴隷になるか暴君になるかのいずれかであって、絶対にともに肩を並べた朋輩にはなりえない」
と書かれている。
奴隷になるか暴君になるか・・・。
それを「作り上げていく」のは女王様自身とM男性。
一年後どう成長しているか楽しみね。
参考文献: ①毛皮を着たヴィーナス (河出文庫) L・ザッヘル=マゾッホ (著) 種村 季弘 (翻訳)
②マゾッホという思想(青土社 )(2004/06) 平野 嘉彦 (著)
右京
下が前に、渚さんと雪さんと私の三人で吊りの講習を受けたときの写真です。
上手くなるためにはもっと練習しなければいけない。
次の写真は一本鞭の講習の時の写真です。
一本鞭はリエさんの指導のもと、打たせて頂きました。
一本鞭を振るうのは本当に気持ちよい。私は精神的にも肉体的にも恐怖と苦痛を与えてから快楽を与える「アメと鞭」に今はまっているので、鞭には大変興味があります。
(快楽+恐怖・苦痛+快楽 の順番でも良いけど)
今オーダーメイドで一本鞭を作って貰うところなので出来上がったらブログで報告しますね。
打たなきゃ意味が無い。でもそれは人に打たなきゃ意味が無い。
ただ打つだけならばクッションでも良いわけだ。
人に打ってその反応を見ながらどこまでして良いのかを判断していかなければ成長できない。
上手な人の鞭は打たれていくうちに気持ちよくなっていくらしい。
しかし、どんなに鞭を振るうのが上手くなりたいと思っていても、鞭を打てる相手が居なければ練習が出来ない。
私たちS女にとってM男性とは本当に必要不可欠な存在だ。
新しい技術を学び、応用していくことによりその技術が体に染み込んでくる。
真っ白のキャンパスに新しい色が塗りこまれていく。
その色を塗っていくのは誰でしょう?
それはSMプレイにはつきものの「痕を付ける」という概念にも同じことが言える。
鞭やケインで打たれ「痕」が体につく、これはSMプレイではよくあること。
「記念に鞭痕をつけて下さい」「ピアスや○○で女王様としたプレイを体に刻んでください」
なんて話はよく聞く。
体についた「痕」を家に帰ってからゆっくり見るなんてM男性にとってはご褒美以外の何物でもないだろう。
しかし「痕」を付けるのは決してS側だけの特権ではない。
技術向上を目指した女王様の練習台となり、女王様のテクニックとして体に吸収・定着すれば、何年後も一緒になることが出来る。
実際には会わなくなっていたとしても、女王様のテクニック・経験として一緒になることが出来るのだ。
女王様の体には決して見える「痕」は付かないけれど、確実にプレイしたM男性の「痕」は付く。
一本鞭などの練習台になるなんて一般人からしたら可哀想なイメージしか抱かないだろうが、それは逆に苦な事ではなくM男性による唾付け行為に近いのかもしれない。
私も何年かして女王様としてある程度実力が付いたときに思い出すのかもしれない。
この鞭の叩き方は●●を叩いた時に気づいたやり方だ。
このアナル責めのコツは◎◎だ。この縛りは○○○を縛ったときだ、と。
私は他店の経験が有り、シオラが始めてではないので今までのM男性の色が少しは付いてしまっているかもしれないけど、まだまだ色を付ける余地はあると思う。
ベテラン女王様になるとある程度自分のスタイルが確立されているが、新人時代に学んだことや経験したことは色濃く残っている場合が多い。
逆を言えば初期の段階でM男性が自らの体を練習台として捧げる事により、自分好みの女王様を作り上げることも可能なのだ。
完成されてしまった女王様に入り込む余地はないけれど、まだ発展途上のS女には入り込む余地がある。
そういう意味では練習台になるのも意味あることかもしれない
一人の人間、女王様を作り上げていく。しかも自分好みのプレイをする女王様。
それは完成された女王様では味わえない大人の男性の楽しみ方かも。
バブルの頃のように景気の良い時代なら一人の女を囲い、理想の女性・女王様を「作り出す」ことも可能だったのかもしれない。
一人の人間を「作り出す」なんていつの時代の男性も変わらず抱くロマンかもしれないね。
けれども、今の時代に一人の女性を囲うなんてよっぽどの事が無い限り無理である。
ならどうすれば良いのだろうか?
個人で「作り出す」のが無理ならば、一人ひとりの労力を分散させれば良いわけだ。
そこで「倶楽部の女王様」に目が行く。
一人ひとりのM男性が与える影響力は少なくなるけど、その分労力も少なくてすむ。その代わり女王様を独占することは出来ないが。
女王様を「作り出す」と聞いて思い出すのが『毛皮を着たヴィーナス』を書いた小説家レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホだ。
このマゾッホはマゾ(M)という言葉の語源となった人でもあり彼自身、身体的・精神的な苦痛や屈辱を被ることによって性的快楽を得る性倒錯者だった。
マゾッホの性愛小説である『毛皮を着たヴィーナス』は、彼自身の実体験に基づいてる。
内容は、主人公が美しい女性ワンダと出会い、自分が苦痛に快楽を見出す人間なのだと告白しワンダに鞭で苦痛を与えて欲しいと、また鞭で打つときには必ず毛皮を羽織ってくれと懇願する話だ。はじめはそれを拒絶していたワンダだが、彼への愛ゆえにそれを受け入れる。
『私の貞淑な妻になって欲しい。それがかなわないのなら残忍で冷酷な女主人になって下さい』
とワンダとの間に、"誓約書" を交わし奴隷と女主人という関係のまま、奇妙な結婚生活を送くる日々が描かれている。
作者であるマゾッホ自身も、実際に貧しい家の出である女性と出会い、彼の小説の主人公ワンダの名を名乗らせ、小説の筋書き通りに倒錯的な行為を強要するようになる。
彼の希望を満たすため、女性は迷いを持ちながら毎夜のようにマゾッホの身体に鞭を打つ。 そしてマゾッホの要求はエスカレートし、マゾッホは自分の前で他の男と姦通するように懇願し、その濡れ場を狂わんばかりの激しい嫉妬心を抱きながら覗き見るようになる。 その苦痛に耐える事がマゾッホにとっては "快楽" に繋がるのだ。
しかし、その歪んだ愛は小説同様に、ワンダがマゾッホ以外の男を愛し、”奴隷(マゾッホ)”に酷い仕打ちをし、”奴隷(マゾッホ)”の下から去るという形で物語りは終わる。
結局彼は最後は一人寂しく取り残されてしまうのだ。
この結末では、”奴隷(マゾッホ)”は不幸で可哀想な男性のように見えるが私はそうは思わない。
女主人のワンダはある意味、本当の意味での『女主人・女王様』になったのではないだろうか?
何でもM男性の言うことをハイハイと聞いてしまうのでは、八歩美人ドミナの出来上がり。
どっちが奴隷か分かったものではない。
八方美人ドミナと言う名の”奴隷”では、M男性としても面白くないのではないだろうか?
エゴサドになるのは良くないが、エゴマゾの言いなりになるのでは意味が無い。
「女は男の奴隷になるか暴君になるかのいずれかであって、絶対にともに肩を並べた朋輩にはなりえない」
と書かれている。
奴隷になるか暴君になるか・・・。
それを「作り上げていく」のは女王様自身とM男性。
一年後どう成長しているか楽しみね。
参考文献: ①毛皮を着たヴィーナス (河出文庫) L・ザッヘル=マゾッホ (著) 種村 季弘 (翻訳)
②マゾッホという思想(青土社 )(2004/06) 平野 嘉彦 (著)
右京